◆渋沢翁が住んだ北区~本邸を構えた飛鳥山~
明治34年、渋沢翁は別荘として使用してきた飛鳥山邸を本邸とし、昭和6年に亡くなるまで住みました。
本邸は、中国の陶淵明の詩「帰園田居」にある「曖曖遠人村、依依墟里煙」(曖(かす)み曖めるは遠き人の村、依(う)ら依らたる墟里(むらざと)の煙)にちなみ、「曖依村荘(あいいそんそう)」とも呼ばれました。
現在も、飛鳥山公園内には、「晩香廬」と「青淵文庫」が残っており、国の重要文化財に指定されています。
▽飛鳥山の本邸
渋沢翁は、明治10年飛鳥山の地に約4,000坪の土地を購入し、同12年から別荘として使用していましたが、明治34年から本邸とし、昭和6年に亡くなるまで過ごしました。
▽旧渋沢庭園
飛鳥山の地に建設した本邸には、つなぎ合わせた日本館・西洋館を中心に、茶室、文庫などが庭内に点在していました。昭和20年4月の空襲により、多くの建物が焼失してしまいましたが、晩香廬・青淵文庫などの一部は現存します。
▽晩香廬
渋沢翁が喜寿(77歳)を迎えた時に清水組(現在の清水建設株式会社)から贈呈された洋風茶室です。晩香廬の名は「題晩香廬壁」という渋沢翁自作の漢詩から命名されており、主に国内外の賓客を迎える接待・接客の場として使用されました。国指定重要文化財。
▽青淵文庫
渋沢翁の傘寿(80歳)と子爵に昇格したお祝いを兼ねて、大正14年に竜門社(現在の公益財団法人渋沢栄一記念財団)が贈呈しました。書庫として建設されたことから全体的に堅牢で、鋼製の書棚など機能にも十二分にこだわった建築となっています。また、竣工後は主に接客の場として使用されました。国指定重要文化財。
◆時代の「始動」の拠点となった北区~この地で迎えた要人たち、渋沢翁が導いた地域~
渋沢翁の飛鳥山邸は単なる私邸にとどまらず、多くの賓客を迎える接待の場としても利用されました。国の内外や分野を問わず多くの賓客を迎え、重要な会議の場、また民間外交の場など、渋沢翁の意思のもと、社会のために開かれた「公の場」へと発展しました。まさに、新たな時代を「始動」させていく拠点となっていたのが、この飛鳥山邸でした。
また、渋沢翁は、日本の近代経済社会の発展に尽力していくなかで、王子・滝野川地域施設への助言や寄付なども行い、飛鳥山邸で地域住民を招いて園遊会などを開催して親睦を深めるなど、地域の発展や人々との交流も大事にしました。
▽西ヶ原一里塚の二本榎保存之碑
西ヶ原一里塚は、旧岩槻街道の日本橋から二里目にあたる目印です。江戸時代の慶長9年、幕府は諸街道に一里塚を設け始めました。大正初期に西ヶ原の一里塚と榎が東京市電の軌道敷設で撤去の危機に瀕しましたが、渋沢翁はじめ東京市長、滝野川町長、地元住民の努力により保存されたことを記念して、運動に参加した有志者により保存碑が建てられました。
▽滝野川警察署
渋沢翁は、警察の事業にも様々な援助をしました。昭和2年の滝野川警察署新築にあたっては、渋沢翁は同署協賛会会長を務めて新築を支援し、落成の際には飛鳥山邸で祝賀園遊会を開催しました。また、現在も同署長室には、昭和2年渋沢翁が新庁舎落成を記念してしたためた書「道之以徳齊之以禮」が飾られています。法律や命令による政治だけでなく、徳と礼によって人を導かなくてはならないと書かれたこの書について、同署長は「我々滝野川署員は、今後も渋沢栄一公の意向を慮り、徳と礼を持って、安心安全な街づくりに尽力していきます。」とコメントしています。
▽音無橋
北区景観百選2019にも選ばれた音無橋。王子権現傍に渡したアーチ型鉄筋コンクリート橋で、昭和4年12月に起工し、同6年1月に竣工しました。渋沢翁が建築・開通を支援しました。
▽関東大震災の救援所拠点
渋沢翁は、大正12年9月1日に発生した関東大震災で、飛鳥山邸を食料配給本部として提供し、また埼玉県から玄米などの食料を取り寄せるなど、災害援助に尽力しました。そして、渋沢翁の食料調達は内務省の配給が始まるまで12日まで続きました。
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