この度、新一万円札の顔に渋沢栄一翁が採用されることになりました。これを機に、北区では、区内関係団体との公民連携により「東京北区渋沢栄一プロジェクト」を始動し、オール北区で渋沢翁の街を盛り上げていきます。
北区を愛し(LOVE)、住居を構え(LIVE)、日本を導いた(LEAD)渋沢翁。
今回の紙面では、LOVE・LIVE・LEADの3つの視点から渋沢翁と北区について探っていきます。
参考文献:渋沢史料館発行『王子・滝野川と渋沢栄一 -住まい、公の場、地域-』
◆近代日本資本主義の父、渋沢栄一 1840年(天保11)~1931年(昭和6)
現在の埼玉県深谷市の農家に生まれました。
家業を手伝う一方、幼い頃から「論語」などを学びます。
青年期には「尊王攘夷」思想の影響を受け、高崎城を乗っ取り、横浜外国人居留地を襲撃する計画を立てましたが、中止して京都へ向かいました。
郷里を離れた渋沢翁は一橋慶喜に仕えることになり実力を発揮し、次第に認められていきます。
27歳の時に、パリ万国博覧会への使節団に従い、欧州諸国の実情を見聞し、先進諸国の社会の内情に広く通ずることができました。
明治維新となり欧州から帰国した渋沢翁は「商法会所」を静岡に設立、その後明治政府に招かれ民部省・大蔵省の一員として新しい国づくりに深く関わります。
1873年に大蔵省を辞した後は、一民間経済人として活動しました。
第一国立銀行を拠点に株式会社組織による企業の創設・育成に力を入れ、また「道徳経済合一説」を説き続け、生涯に約500もの企業に関わった他、約600の教育機関・社会公共事業の支援並びに民間外交に尽力しました。東京商法会議所(現東京商工会議所)の設立にも携わり、その初代会頭も務めています。
世界の動きを一早く読み取り、それに合わせるように立場を変え、日本を導いて1931年91歳でその生涯を閉じました。
◆渋沢翁が愛した北区~王子製紙の立ち上げ~
明治6年、渋沢翁は王子に抄紙会社(後の王子製紙)を設立しました。王子地域と渋沢翁との関係はまさに同社の設立から始まります。
程なくして、渋沢翁は飛鳥山に別荘を建設しますが、この地に別荘を設けた理由には、設立に尽力した同社の工場を操業後も見守り続けたいという渋沢翁の思いがありました。
また、飛鳥山は渋沢翁にとって理想的な場所でもありました。国内外から賓客を迎えることが多くなった渋沢翁は、郊外の広い庭園を備えた邸宅が必要だと考えました。都心を離れ自然豊かな飛鳥山は、理想の邸宅を建てるのに打って付けの場所だったのでしょう。
渋沢翁は、後にこの地を家族と過ごす日常の生活の場としても使用し、飛鳥山をこよなく愛しました。
▽当時の抄紙会社
渋沢翁が建設した飛鳥山の邸宅から望んだ、王子製紙会社の姿です。渋沢翁は、同社の設立や工場の敷地選定などに関わった経緯があり、同社に強い思い入れがありました。
▽今も残る抄紙会社の足跡-洋紙発祥の地碑-
抄紙会社の工場創立80周年を記念し、昭和28年にJR王子駅前の跡地に建てられました。
▽日常を忘れさせるオアシス
明治の世となっても、飛鳥山は木々が生い茂り、都会の喧騒を忘れてゆったりとした時を過ごせる憩いの場でした。
▽渋沢翁が愛した桜の地、飛鳥山
満開の桜を見つめる渋沢翁の像。江戸時代から桜の名所として親しまれたこの地で、渋沢翁も花見を楽しんだのでしょうか。
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